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■ 暴力と脅しの日々
「父親から名前で呼ばれたことはありません。私には父親はいないのだと思ってきました。家では心が安らぐことはなく、暴力や脅しにおびえる毎日でした」
ジャズシンガーの戸坂純子さんは、生まれてこのかた、父親から微笑みかけられたことも優しいことばをかけられたこともない。「弱い者に強い」父からは、いつも目の敵にされていた。
「食事中に、私たちの目の前でゴルフクラブを振り回していました。また、よく包丁を出せと言われました。おびえる私たちを見てにやっと笑うのです。私は怯えては負けだと思って平静を装っていましたが、脈拍が上がり、常に緊張の中にありました。いっそのこと死んでしまおうと何度も思いました」
母につらくあたるのを見ていられず、幼いながらも一生懸命に母をかばった。異常な生活の中で、唯一彼女を慰めたのはピアノだった。「ピアノを弾いているときだけは、現実を忘れることができました」
■ ジャズヴォーカリストとして
フェリス女学院に進学し、ピアノを専攻。在学中から、ピアニストとして活動を開始。卒業後は音楽事務所に籍を置き、ホテルやレストランでの演奏活動をしていた。徐々に弾き語りの仕事が入るようになり、ジャズヴォーカリスト細川綾子氏に師事、ジャズヴォーカリストとして活動を始めた。
「歌は苦手だったんです。でも仕事なので、どうせならちゃんと学びたいと思っていた頃に細川先生に出会ったんです。今思えば、それも神様の計画のうちだったんですよね…」
ヴォイストレーナーに勧められファーストアルバムに入れた曲に、黒人霊歌「Swing Low, Sweet Chariot」があった。「預言者エリヤが火の戦車に乗って天に昇っていくようすを描いた歌だといわれています。『神が全ての罪を拭い去ってくれたとき、故郷へと運んでおくれ』と歌っているのですが、その時は歌詞の意味を理解していませんでした。ただ、このアルバムを聴いたクリスチャンのある方が、『ゴスペルの曲を歌っているこの人はいつかクリスチャンになる。いつか会って話したい』と思い、祈ってくれていたのです」
■驚くばかりの恵み
一方、戸坂さん自身はリクエストされた曲のことで悩んでいた。その曲は「アメイジング・グレイス」。何度歌ってみてもしっくりこず、歌詞の意味も理解できなかった。そんな折、故郷・新潟の後援会の方々と食事をすることになり、なんとその席に彼女に福音を伝えたいとずっと祈ってきた多田友和さんがいたのだ。そして「アメイジング・グレイス」がゴスペルであり、教会の牧師のところに行って詳しく曲の解説を聞くようにと勧めてくれた。
「多田さんは、その場で熊谷の小島武牧師に電話し、その次の日教会に伺うことになったのです。備えられていたのですね」
小島牧師はこの曲の作詞者、奴隷船の船長ジョン・ニュートンが神に出会い、恵みにより回心し、変えられていくまでを詳しく教えてくれた。
帰りがけに、「これを歌ってみてはいかがですか?」と手渡されたのが「きみは愛されるために生まれた」という韓国生まれのゴスペルの譜面だった。そのタイトルが衝撃的だった。
「自分が愛されているだなんて、考えもしなかった。家に帰ってその歌詞を歌った瞬間、何か温かいものが心に降り注ぐように感じました。ああ、これまでの私の苦しみ、悲しみを全部知っておられる方がいたんだ、と思いました。孤独だった人生に光がさした瞬間でした」
あふれる涙をとめることはできなかった。「愛されたかった。愛されていると実感したかったんです。同時に、『今、来たよ』と語られたような感覚でした」
戸坂さんは、幼い頃から命の危険と隣り合わせであったため、毎晩祈りをささげていた。
「『天の神様、私を助けてください』と祈っていました。そのことを小島牧師に話すと、『神様とは私たちのために十字架にかかられたイエス・キリストですよ』と言われたんです。試しに『イエス様…』と祈ってみました。すると、遠くのほうにいた気がした神様をすぐそばで感じることができたのです」
母に話すと、同じミッションスクールの卒業だったので、一緒に礼拝に行くと言った。二人で礼拝に通い始め、翌年二〇〇八年八月に共に洗礼を受けた。
■ 憎しみからの解放
戸坂さんの母は、夫からの暴力の日々でも娘と息子を大学卒業させるまではと我慢。その後ようやく離婚した。
「それから穏やかな暮らしが始まったのですが、神様を信じるまで父への憎しみは消えませんでした。受洗を境に私の心の中で変化が生まれている事に気がつきました。記憶は残っているのですが父の事を思っても何も感じなくなりました。憎しみが取り除かれたのです。そのうちに父をかわいそうだと思うようになりました。人を憎み、人の悲しみを喜ぶような人生なんて悲しい人生です。父も神様に出会ってほしい。あんなに憎んでいた父の救いのために祈っているなんて、奇跡です」
戸坂さんが大事にしている聖書のことばがある。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(Ⅱコリント5・17)。そして「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラテヤ5・22)。
「私が新しく生まれ変われるなんて思わなかったが、キリストゆえに可能となった。そして御霊の実の香りを感じることなく育った私が、イエス様に出会って、初めて知った。この実を実らせることができるように、毎日必ず祈りの中に入れています」
イエス様に出会い、愛される喜びを知った戸坂さんは、歌も表情もすべてが変わった。ある日ヴォーカルレッスンをしている生徒に、「先生は充実した人生を歩んでいるように思える。先生は何かを信じておられるのですか? 」と言われた。その生徒は先日受洗しクリスチャンになった。 「昔の私は、歌う姿を『悲痛な叫びとしか思えない』と言われていました。神様の愛が私を変えたのです」
苦しみの期間を神様に会うための必要な期間だったと戸坂さんは言った。苦しみにはできれば出合いたくない。しかしどんなに闇が深くても、イエスの光が届かない場所はないのだ。
最近彼女の肩書きには、「ゴスペル」がついた。愛を知らない方にこの光を伝えるために、戸坂さんは歌い続けている。
(『百万人の福音』2013年7月号への寄稿)


































